親のおすそわけ。 [家族]

5、6年程前、一番精神的に過酷な時期があった。
会社を辞め、自分探しをしていた。
東京に来てからの10年と少し、友達は一人もできなかった。
嫌味な自分、遊びも知らない自分、そんな何の役にも立たない奴を友達にする人は殆どいない。
田舎や、同じ東京でも本当の先祖代々から東京に住む下町の社会では違うかもしれない。
晴海トリトンにプロジェクトがあった頃、月島ではっぴを着て歩いている人たちを横目に見て、うらやましく思った。

どんどん貯金が無くなっていく中で、起業の勉強とかを、言い訳をするように机に向かってやっていた。
親父(おやじ)は、子供が自慢の息子である事を、唯一の自慢にしていた。
小学校の時、あだなが「博士(はかせ)」だった。その事が嫌だと話すと、親父は「博士と呼ばれるということは勉強ができるということだ。滅多に呼ばれるもんじゃない。」と鬼の首を取ったように言っていた。
出世すること、金持ちになること。
親父自身が、どんな出世を、出世とは何なのかを、考えもしない中で、
自分も漠然と出世、金持ち、という方向で何となく、もう30才を超えていた。
分かっていながら、未だに起業の勉強とか、自営業の始め方とかを考えていた。

兄が結婚し、電話で「世田谷に家を買ったから。」と媚びるように通達してきた。
醜い争いはしたくなかったから、正直に言ってきても、承諾するつもりだった。
しかし、総取りしかしない、兄らしいやり方だった。
その時期から、10年に一度だけしか東京に来ず、1年に2回だけ洗剤や余り物等が送られてくるだけだった親から、毎月のように、電話やEメールが届くようになった。
Eメールは、母親のためにパソコンを使えるようにしていたので、母親が送ることができる。
何度となく、兄の仮住まいのマンション等にも呼ばれ、貧乏で時間だけ余っている孝行な弟の役柄が与えられた。
夜は、自分で自分のアゴを殴っていた。
自分が親の面倒を見るのは仕方がないと思った。それはいいから、もう少しだけ、待ってほしい。
それが自分の希望だった。
親が望む自慢の息子、出世をして自慢の息子であり続けるために生きた半生。
「自分が本当は何をしたかったのか。」も、とうに忘れて分からなくなっていた。
ただ、自分の気持ちを正直に感じれる自分に変わりたい、そのためには、時間が必要だった。
1年、長くても2年、連絡を絶って、治療室にこもって養生し、直したかった。

でも、それはかなわなかった。にわかに騒がしく、電話やEメールが届くようになっていった。
電話が1回来るたびに、3日寝込み、Eメールが届くたびに、3日寝込む。そういう生活をしていた。
アゴには、たんこぶの上にたんごぶを作るものだから、シコリができて輪郭が僅かに変になっていた。
親が、どういう考えで連絡をしてきていたのかは分からない。
ただし、そっとしておいて貰う事さえ許されない、というのは確かだった。

ある日、またEメールが届いており、母親が目の病気になり、日赤で治療を受けたとのことだった。電話をしたところ、両目が白内障になったとの事だった。
朝起きたら目が見えないので、近所の病院に行ったところ、運良く、待っていた人が「それはすぐに手術をしないと駄目」と教えてくれたそうで、日赤に行って手術をして貰い、無事に難を逃れたとのことだった。
それから、1ヶ月程後。また、Eメールが届いた。”東京に行っていいか”という内容だった。
自分は”気が進まない。”と断りの返信をした。
目が一時的に見えなくなり、手術もしたので、自分の子供の顔を見ておきたい、というのは気持ちとして分かった。
ただ、白内障は一度かかって直したら、二度とならないそうで、また、その事は、母親自身も理解していた。
だから、ずっとではないので、一定期間を空けた後にして欲しかった。
すぐに、母親から返信のEメールが返ってきた。「顔を見たいだけなのに、駄目なの?」。
いつも通り、65才のおばはんからの気持ちの悪い文章だった。
相手の不親切を責める会話は、母親から兄に遺伝した物で、二人ともしばしばこれを使う。
電話・Eメールだけでも3日寝込むのに、直接会うのはかなり億劫だった。しかし、承諾してしまった。

東京駅に母親を迎えに行った。急だったので、観光の準備も結局できず、
雨だったので、とりあえず温泉と思って、ラ・クーアに連れて行った。カップルが多く、失敗だった。
母親と自分があまりにも似ていないせいか、周りの人が時折不思議そうにこっちを見る。
赤ん坊の頃、母親が乳母車をついて歩いていると、「かわいいねぇ、どこの子?」とよく聞かれたらしい。今でも、どう見ても他人にしか見えない。
兄の家に母親を泊まらせる事とし、兄の家に連れて行った。
すぐ帰ろうとしたが、止められて、少し居る事になった。
いつも通り、「結婚しないのか」、「ひげおじさんかと思った」、と少し刺さる言葉を聞きながら話をして、
そろそろ帰ろうとしたら、もう少し居ろと大騒ぎになった。
もうすぐ、兄の嫁が帰ってくるらしい。待たずに帰ったとなるのが、良くないようだ。

不思議な物で、自分が辛いときは周りも辛いものだ。
人には、自分で努力する人と努力しない人がいる。
何事にも計画・準備を怠らず、健康管理にも勤め、何かあると自分で乗り越えようとする人。
何も考えずにその日を行き、三段腹を育て、何かあると人に頼って超えようとする人。
頑張る人が一番辛いとき、周りの人が溜めたツケのおすそわけを背負うことになる。
一人で頑張り続け、フラフラになりながら最後の力を振り絞っている時、登場する。
後ろから、トンっと一押しされ、いつも越えてこなかった一線の外に踏み出してしまう。

その日から、いつもより長く寝込んだ。
アゴを殴る力が強くなり、2日費やして作ったアクリル棚を素手で叩き割った。自虐行為の程度が少し強くなった。
ひどい怪我にならないように、自分でコントロールをしていた。しているはずだった。
パソコンを見ていて、目が疲れて痛くなってきた。目玉を指で押してみた。
「多分、良くないんだろうな。」そう思いながら、指を奥に入れて押し出すように押した。
少し、疲れ目が取れた。

そうして、1ヶ月程経った頃、夜に30cm位の蜘蛛が出てくるようになった。黒く、足が異様に長く、枕元に近づいてくる。
驚いて飛び起き、すぐさま電気を付ける。すると、何もない。
夢なのだろうが、信じられずに少し探してみる。やはり、何もいない。
そういう事が何度か繰り返された後、ボーっとステレオデッキを見ていると、何か黒い影が通り過ぎた。「あれっ?」。
もう一度見ると、何もない。少し経つと、また何かが通り過ぎる。
自分が動くと通り過ぎる。気がついた、目の前に黒いごみのようなものが浮いている。

次の日、青い空を見ると、ごみのような物がたくさん浮いていた。「これが、蜘蛛の正体か」。
その日以来、蜘蛛の夢は見なくなった。

1年後、当初予定していた通り、実家の隣の市に引越し、自営業を始めた。
飛蚊症の事は、色々調べていた。引っ越す前には、眼科に行き網膜はく離はない事を確認し、"もう、直らない"事も知っていた。
子供の頃から、風景を見るのが好きだった。運動場で、空を見上げるのが好きだった。
青空に染まった家や路地、緑色に透ける垣根の草、一面に広がる雨雲。
何気ない景色を見て、それだけで楽しかった。数少ない、本当の自分らしさの一つだった。

これからの人生に、綺麗な青空は存在しない。


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